昭和40年07月03日 夜の御理解



 ・・・頂いておりましたら、こんな事があった。内容を言いませんでしたから何か分からんですけれども、まキリスト教関係の学校の何かの様だったですね。キリストのキリストに忠実たれか、と書いてありますね。私それ見せて頂いてから思ったんですけれども、私共があの教祖に、神様の信心に忠実でなからなければならないと、いうなら教祖の御教えに忠実でなからなければならないと、と言った様な事を私感じたんです。
 それからここ座らせて頂きましたら、すぐこのの事を頂くんですね。ですから私はあのう御神訓とそれから真の道の心得という中から、あのどう言う様な教祖の神様の教えておって下さる事に忠実にならねばならんだろうかと、またこうあれとこうあってはならないとはっきりいうておって下さる事を、いわゆる抜き書きしたんです。したら丁度この一枚紙一枚に一番あの最後なんですね。より書きしたのが丁度十七か条になった。
 だからせめてこの事を、せめてこの、例えば御教えだけぐらいには、お互いが忠実にならなければいけん、忠実になるっていうのは、もう自分の身のものになってしまわなければならないと、血、肉になってしまわなければいけないと。例えばこう書き抜きをしておる、これをただ読んだというだけではなくてですたい、これがもう自分の血肉になってしまわなければならないと思う。
 してあの神乍らなことだと思わせて頂いたんですけれども、この事を又あの今の御祈念の時も、お礼を申させていただきよりましたらね、あのお神酒にあの甘露というお神酒がお供えがあっとりますね一番前に。あれをね上に吟醸とかいてある、吟醸甘露と書いてある。吟醸というのは酒を醸し作るということである。甘露というのはこれはもう信心で言う一番真に有り難いという心なのである。ね、
 そういう有り難いというような。その心というのは、もちろん改まらなければならない、磨かせていただかなければならないけれども、教祖の神様が教えてくださった御教えに忠実にならせてもろうて、それが自分のものになってしまうところからです、ありがたいというものは吟醸されてくると。まその十七か条を読んでみます。
 「教祖の御教えに忠実たれ」と
 「一 天に任せよ、地にすがれよ。
 「一 神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。
 「一 神は昼夜も遠き近きも問わざるものぞ。頼む心にへだてなく祈れ。」と
 「一 表行よりは心行をせよ。」と
 「一 ご地内をみだりに汚すなよ。」と
 「一 今より何事にも方位は忌まず、わが教えの昔に帰れよ。」と
 「一 わが信ずる神ばかり尊みてほかの神を侮ることなかれ。」と
 「一 慾徳にふけりて身を苦しむることなかれ。」と
 「一 四季の変わりは人の力におよばぬことぞ。物事、時節に任せよ。」と
 「一 信心する人は何事にも真心シンジンになれよ。」と
 「一 大酒大食するは絶食のもとになるぞ。」と
 「一 何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れなよ。」と
 「一 まめなとも信心の油断をすな。」と
 「一 打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。」と
 「一 過ぎたることを思い出して、腹立て苦をすなよ。」と
 「一 心で憎んで口で愛すなよ。」と
 「一 陰とひなたの心を持つなよ。」と
 この十七か条を書いたら、これがいっぱいだったんです。してあの真の道の心得、御神訓や、これ以外のですね、こうしろ、あああれということは書いてないです。他に御教えは沢山ありますけれども抽象的なものばかりです。例えていうなら、「大酒大食は絶食のもとになるぞ」と。ははあ、大酒大食をしないと長生きのおかげをいただけれるというだけのことじゃないです。
 大酒大食の、ああ教祖の神様が、ああ教えておられるからと、そのことに忠実にならせて頂いたらです、おかげが受けられる道なんです。それが素晴らしいでしょ。ね、ですからこれを私は読ませて頂いてから思うんですけれども、お道の信心、お道の信奉者である限りですね、このくらいのことは血肉になっておかなければいけないということです。簡単な事ばっかりでしようが。
 「天に任せよ、地にすがれよ」と、祈りにあちらに、こちらに、甘えてあっち行ったり来たりするなと、祈る時はいよいよそのことは天に任せて、神様にお任せして、地にすがるような大地にひれ伏した信心をせよということ。「神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと」だと。ね、というようにその、例えばこれを読ませて頂いてですね、この、どれ一か条でも、お互いが信心させて頂く者がです。
 忠実にならせて貰おうと、御教えに忠実にならせて頂こうと、という事になったら、もう簡単にできる事だけれども、この簡単に出来る事が出来てない。例えば「ご地内をみだりに汚すなよ」と、いわれるから徹底して、ご地内をみだりに汚すような事をしてはならないという事がです、もう自分の心情になってしまわなければいけんと、ね。その事が守り抜かれていく時、おかげが頂けれると思います。
 そう言う様なものが身に付いていく時に、いわゆる有り難き勿体無き、いわゆる甘露の心というものが吟醸されてくるのです。これは私またあの機会があったら、これをひとつ全部写させて頂いて、これをこの十七か条だけをですね、これだけをどうか皆さんも、貼っとこうじゃないか、これだけは自分の身に心に入ってしまわなければならん。椛目で信心の稽古をさせて頂く者がです、このくらいの事位は、もう血肉になっておらなければならないと、そして磨くのであり、そしてからの改まりであり、そしてからの様々な修行、精進であるという事。
 いうなら神様、教祖の神様がです見易う、ね、こうあれこうしてはならんと言う事を教えておられる。例えば仏教でいうところの五戒ですか、ね、またはキリスト教でいうところの十戒と言った様な、仏教の信心をするならばこうして、しちゃあならんとか、キリスト教の信心をするならば、是だけ守らねばならんと言った様な事は。
 もうその大変な難しいこと。ね、けれども教祖の御教えはそこんところに、私は、いわゆる庶民性というかね、素晴らしさがあると、こう思うんです。こういう事を聞かれてから、どうするとが難しいというのがないでしょうが。難しくないのだけれど、これがおろそかにされておると、これでは、いわゆる有り難い心を求めても有り難い心は、やはり頂けんということがわかるですね。
   おかげを頂かなければいけません。